稽古では局所ごとに身体の感覚を観る。または感じる。
そこがどんなふうに観えるのか、どんな感じがするか言葉に出して言ってもらう。
形容詞が豊富になるほど、その人の感覚のヴァリエーションは豊かになる。
ただ観たり感じるだけでなく言葉として形容し発音するとその感覚は身体に深く刻まれる。
かつては感覚の豊かさが、年齢を重ねた証だった。感覚は経験して増えていくものであり、生来備わっているのは感覚する機能だけだ。
日本の古典となる世界にはさまざまな形容表現による遊びがあった。
それにより人々の感性は豊かになり、研ぎ澄まされ、その世界への集注を楽しんだ。
平安時代や室町時代の貴族にあったのは和歌や源氏物語などの物語など。市井の人々の俳句など民衆の間にも言葉遊びはひろく愛されていた。
形容詞により、どれだけ遠回しに心を伝えるか、そこに文化の発生の源があったように思う。
言葉をダイレクトに伝える無粋、形容の豊かさに言葉を踊らせ、言葉を記号化せずに本質を感じさせる粋。
報連相と全く逆の時間の流れに身をまかす心地よい時間。
いまは形容詞を否定してきた近代のどん詰まりだ。
近代資本主義がインターネットやAIなどメカニカルなものにもっとも相応しいとわかったいま、人は原点に回帰する旅に 出るしか存在価値を実感できなくなる。
「はぐれしものたちよ!
そろそろ形容詞全盛の世が戻ってくるよ」
2026/1/4 Sosuke Imaeda