茶道から考える和人の視野

 裏千家では、主人から見て、茶道具のある正面を手前座と呼び、そこから右およそ45度に客付き、左45度に勝手付きを取る。

炉と風炉という季節を二つに分け、それに応じたお釜の位置の変化により、手前座の位置は45度ずれて、それにより壁が障害となる場合は仮想の勝手付きなども出来る。

 

 まず、興味深いのは炉、つまり火を扱う処と亭主、茶を立てる人が同じ畳の上にあるということ。茶では畳一畳を一つの小さな結界と考えている節があり、炭火は身体の外部にあるのだが、人と同じ場(一畳の畳のうち)にある。和人の自然観がとてもよくわかる。つまり私たちの体は、身体観は近代的身体(健康診断の身す)体)の枠には収まってはいない。結界とは外部を排除するというよりも、身体感覚の拡張(もしくは閉ざす)境界とも思える。

 次に面白いのは、亭主から放射線状に、気の流れの世界を捉えていること。私の稽古したこれまでの手前では、その直角(45度➕45度)のエリア内でほとんどの行を行っている。

 軸は主人の頭頂から畳に伸びている。軸から線として左右に45度広がり、その中で亭主がお手前としてまあるい運動を行なっている。

 和人は明らかに気の作動するエリアを気の境により定め、拡散している気を濃密にしている。茶事では、外の世界から客人が門に入れば、気の空間にお邪魔する。柵、庭、庵、そして茶室と絞り、さらに手前により気の密度を絞っていく。最後にはそういった密度の濃さを茶に練り込むのだろう。

 当然のようにメインイベントは薄茶ではなく、濃茶になる。茶事、茶会で濃茶をいただく緊張感は気を全身に浴びる空間と時間となる。亭主が設定した濃厚な気と同化するのだ。だからこそ、ある一定の流儀、型が必要となっている。型というのは気を浴びる、もしくは受け入れる器作りだ。

 もちろん客人は門に入った時には「お邪魔します」。つまりお邪魔虫として、異物としてその空間に存在するのであるから、服装から行い、言葉全てに自分はお邪魔虫との自覚を持ち続けなければいけない。そうすれば身体は引き締まり、亭主が用意してくれる気に感応することが出来る。茶は選ばれた人にしか気を分かたない。

 

 

「なぜ、風炉の問答は客と正面に向き合わず、炉の問答は客と真正面に行うのですか?」

私の茶道の先生の答えはこうだった。

「座る角度は客向きではなく客付きです」

私の解釈はこうだ。

 

 主人はリアルの客の位置を見ているのではない。客付きという客がいるべき、というかいるはずのところを客付けと利休は呼んだ。

つまり、主人にとっては唯我独尊、完全に自分の視野で座を決めている。

客がどこに座ろうと客付けはあくまで主人がもう決めて手前をしているのだ。

 それが和人の「しぜん」である。

 もちろん和人となる客人も、想定されている主人が観ている仮想の自分と同調し、主人の心が自分の心になるのだ。

 

 そこには、相手の目を見て、座る位置を決めておもてなしをするという何やら近代の日本文化みたいなものとは一線を引いている。

 私の捉えた茶道では、たとえ総礼であっても絶対に相手の眼を見ない。見ないからこそ相手の虚像(気の実像)が観えてくるのだ。

 

 武士は絶対に殿様の目をみない。では何を見ているのだろうか。自分の身体感覚を通して、自身を観て、その先に殿様の身体感覚を観ているのだ。そこではお互いの無条件の、白紙委任の身体がなければ、身体は相手の虚像を炙り出すことはない。その場合は永遠に主君との忠誠は生まれることはないだろう。

 

 茶の文化が生まれたのは戦国時代だ。

 今でも仔細に手前を分析すれば、わずかなのかもしれないが、その時代に求めていた、命懸けで生きていた身体の息吹の一息を感じることはできる思う。

 

 その一息をあなたの身体で風にするかどうかはあなたの自由だ。

 

2026/6/1 Sosuke.Imaeda