子供の頃は一日が長かった。小学校入学時に六年生まであると聞き、遥か彼方にある未来にうんざりした。
それがどうだ。いまの私には2000年代以降はついこの間のように感じる。
1990年代でやっとひと昔か。
今年もいろいろな出来事にウンウン唸りながら日々を過ごしていくうちに年の瀬。クリスマスの喧騒を横目に、おめでたいのか誕生日、そして除夜の鐘音も小さくなった大晦日と一気に時間は進んでいる。
昔は新しい年を迎えると今年の抱負などというものを兄弟で言い合った。まぁ、二、三日で雲散霧消するひ弱な抱負であった。
加速度的に人生は進んでいく。
さて、カウントダウンに入ったとも言える来年を迎えるにあたって、いまの自分はどう語るのだろう。
「オイ、壮介」と聴いてみる。
気持ちの区切りはやはり大切なのだ。GHQにより強制変更された「勤労感謝の日」、以前は「新嘗祭」という天皇が自らお米を食し豊穣を祝う日本のとても大切な式典だった。
米の周期を節目にした新たな身体感の育成である。新米と古米の間に古典的な身体に刻む境がある。
儀式は様式を重んじるが、それは日本古来にある何ものかを身体に呼び寄せ、身体観に新たな息吹を吹き込み、腹腰に新たな気を集める型だったように思う。
いまある身体を展開し新たな身体で新年を迎える。
今年心に積もった塵は、振り祓い、静かで、清らかな心で新たな年を迎える。
そのための大掃除であり神社や寺詣りなのだと思う。
私の儀式は、息を背骨から腰に吸いこみ肚に吐きながら気を集める。そして身体感を維持する一点を逃さない。
野口晴哉先生流の型だ。
来年は丙午の年ですね。いろいろ大きな変化が起こると思うが、淡々と新たな身体への稽古を、日々新たに重ねていきたい。
心と体は別のもので、たとえ体が朽ちていっても、いや、新たな経験を積み重ねるほどに心は静かに濁りなく清清と流れていく。
欠けたもの、古びたもの、侘び寂びに感応し新たになる身体。
眼に見えない身体こそが新たな身体である。
新たな心は新たな体でなければ生まれない。
私のたわいの無い雑感をいつも読んでいただいてありがとうございます。
みなさまどうか佳い年をお迎え下さい。
2025/12/28 Sosuke.Imaeda