【晴風学舎に移って】
整体協会から晴風学舎に移行して二ヶ月が過ぎました。
特にやっていることが変わったわけではありませんが、お知り合いなどいらっしゃらないと本駒込稽古場でどんな稽古をしているかはよくわからないと思うので、全く関係のない方でも少しでもお分かりになっていただけるように庵主である私の考え方と稽古内容を少々書いてみたいと思います。
【古の人の感受性】
私自身がここでやりたいことは、古の人(特に江戸以前)の感受性がどうだったのか、実際に体験したいということです。
たとえば喜怒哀楽をどう感じていたか?このどう感じていたかというのは、頭で感想のように感じるということでなく体がどのように感応しているのかということです。
たとえば「孤独」。どんなに文明や科学技術が発達しても、いやそうなるからこそ「孤独」という感はつのっていくのではないでしょうか?
では縄文時代の身体は、飛鳥時代の身体は、平安時代の身体は、室町時代は、江戸時代はと、その時代じだいで「孤独」をその時代の身体はどのように受け止めていたのでしょうか?
全く同じように身体が感応していたとは言い切れません。
「孤独」と感じているのは、脳なのか、胸なのか、はたまた腹なのか、腰なのか、尻なのか。私たちが天からのギフト(少なくとも私はそう思っています)として授かった私たちに寄り添っている身体はどう受け止めて感応しているのか?
おそらく多くの皆さんは「寂しい」としみじみ浸っていらっしゃることはあっても、私がその「寂しさ」は胸の哀しみなのですか?それともお腹なのですか?などとお聞きしたらきっと怪訝なお顔をされると思います。
でも、いろいろと稽古していくと、別に頭で考えなくても、その囚われた「寂しさ」を胸に置き換えれば「孤独」の響きを感じられて、頭のモヤモヤは無くなることを体験出来ます。またおなかに「哀しみ」を持ってくることで、「孤独」が強く生きていく原動力になることもあり得るということが実感されるのです。
ちょっと笑ってしまうかもしれませんが、「孤独」の居座っている場所で「孤独」という虚の鞠と戯れるだけでなく、「孤独」という虚鞠をその場から蹴り出すということも出来ないわけではないのです。
「孤独」という気持ちを支えている身体の感覚(今の例では虚鞠)があるのです。
また、多くの方が「あの時、ああすればよかった」という過去の「運命」や「後悔」などを背負って生きています。残念ながら過去は取り戻すことは出来ません。これまで皆さんはどれだけ頭の中で「後悔」してきたのでしょう。でも背負うところが脳みそでなくて、背中になったらそれはどんな「後悔」になることでしょう。決して同じような「後悔」を身体が提示するわけではありません。いったん「後悔」を背負ってしまえば、今までどんなに胸が締め付けられ、呼吸が浅かったかがわかるかもしれません。
それには「後悔」という思考を支えている身体の感覚を抽出するのです。
起こったことは変えられません。それが現実です。でも起こったことを受け止める身体の感覚の拠り所を、実は変えることは、古の身体感覚をカタをつくることで、丸ごと真似ることが稽古ではできるのです。
思考から感覚を炙り出し、感覚空間としての身体のどこかに定位させるという稽古は絵空事ではありません。正しい指導により、邪念を取り払いやってみれば、誰しも可能な稽古です。
ここでやっている稽古はあなたが引きずっているものを、身体を万華鏡のように捉え、違った視点で覗いてみることに他なりません。
一人になりきり、きちっと身体感覚を観察さえできれば、現在あなたがぶち当たっている局面の打開も、全く想定外のところから起こっていくことでしょう。全く不思議なことです。
あなたが置かれている局面を頭脳ではなく、身体で置き換えれば、世界を観察するまなこは自ずから備わり、そこから人生の局面は変わっていくのです。
【本駒込稽古場の稽古】
本駒込稽古場の稽古は、身体感覚を対象とした稽古です。
たとえば、腕立て伏せをして二の腕の筋肉を鍛えるのが、スポーツクラブとすれば、ここでは身体感覚を磨き、腕を本来の腕という感覚をきちっと持った生きている腕に変えていくという近代では忘れられ、行われなくなった稽古なのです。
実は私たちの腕は意識下のコントロール配下に置かれ、本来の腕の動きを制限されています。腕には腕という感覚があって然るべきなのに、近代的に思い通り動く、使い勝手が良くなった器用な腕を、私たちは成長した腕と見做しているのです。本当はかつていろいろな腕の感覚があったのです。そしてそれは自覚が作り出すものではないのです。
そしてなぜそんなことをするかというと、過去の先立たちがどのように実感した世界を人生と結びつけ、生きてきたかということを自分の身体を通じて再体験できるからです。
それが何の役に立つのかは本当のところわかりません。ただ、稽古がうまくいっている時には自然と呼吸が深くなり、首の緊張が解け、視界が晴れた感じがし、下半身が現れ、生きている爽快感が湧いてくる。その感覚が大好きでやっているとも言えるのでしょう。
もちろん、安易に出来るものではありません。だからこそ稽古場と命名しているのであり、野口晴哉先生は道場と称していました。
生き方もあったのでしょう。運命への反抗もあったのかもしれません。これまで知らぬ間にまとわりついた経験を癖としてへばりつけてきた身体は、良かれ悪しかれ、自身の歴史を背負っているのです。黒歴史もあるし、白歴史もあるのかもしれません。
そのせいか私は毎日、自分の身体につまづき、息苦しくて、行き詰まっている。何とかして私の身体に密かに息づいている先立たちの、古の和人の感受性を浮き上がらせ、それを明日の生きていく糧にしていきたいから稽古をしているのでしょう。
そうしたことで、身体に潜む古の和人の感受性を学び、少なくともいろいろな色を持つ和人として身体を全うしたいのだと思います。
私はそれを稽古として取り入れ、皆さんと一緒に追求していきいと思っています。
稽古自体は一人稽古としていつも日常からやるように心がけ私は毎日を送っています。あえて本駒込稽古場を作って個人教授などをやるのは、その新鮮な身体のリフレッシュ感を他者とも感応し分かち合いたいからなのです。
どんよりとした人生がほんの一瞬でも変化すれば明日を生きる活力にもなろうかと思います。新鮮な生き返ったような感覚を稽古に参加する方と一緒に分かち合いお互いの身体を成長させていきたいと願っています。
身体の感受性の祖といえば、言わずと知れた整体の創始者である野口晴哉先生であり、その全生の思想を最も正当に受け継いでいる晴風学舎の学びを基礎として、自分なりの稽古法を編み出し皆様に伝えているというわけです。
では具体的にどんな稽古をしているかを少しご紹介してまいりましょう。
【坐法臥法の稽古】
まず基本として覚えていただくのは、私の師である野口裕之先生が考案なさった坐法と臥法です。つまり、立ち姿勢から正しい身体となる正座をする。また正座から跪坐とし立ち上がる。また正座から正しい身体として俯せになる。そして仰向けになる。このような動作法を学んでいただきます。
これが稽古の基本となり、応用編をやるにしてもいつでもここに立ち戻ってくる基礎となります。
正しい身体というのは私の造語ですが、それは身体の感受性がきちんと整っている腹腰ができ、全体性を保ち、焦点が現れた身体のことを指しています。
身体は同じ動作を繰り返すと萎えていきます。たとえ動いた見た目は同じでも、身体内で動く身体感覚は都度変わっていきます。それが自然の摂理というものです。
日本の男性の平均寿命(約81年)の生命の素である心臓の鼓動数はおよそ30〜40億回くらいらしいですが、科学的にも一回たりとも同じ挙動の心拍はないといいます。
一方、私の知る限り、人工的などんなスーパーなコンピューターでもランダムという数字の羅列は無理で、いつかは必ず規則性を持ってしまうらしいです。
人工的でないもの、つまり自然の生命とは同じ挙動をしない動作を持つものなのです。
私たちの身体は規則性を持った動きを繰り返すほどに萎えてきます。これは簡単に稽古によって体験できます。本当の身体と出会うためにも、いつも迷った時には基本に立ち戻り、坐法や臥法を初心の方も中級の方も一回いっかい違った身体感覚により丁寧に稽古していただくことになります。
上級者用の基本動作にしても同様です。坐法や臥法の中にその上級たる質の高さを容易に見出すことができるよう稽古することに稽古の醍醐味があるともいえましょう。
したがって、人生に完成がないように、坐法や臥法も完成はないのです。あるのは、「運び」つまり手順であり、それを都度、変化させ身体を鍛錬していくカタ(器)であるとも捉えて下さい。
また、坐法や臥法と共に稽古していくのは、現代の身体動作との比較による古人の歩き方や重心の捉え方、今では使うところがズレてしまった腰椎と動作の関係など古典的世界の身体の動かす規範、動法の稽古法を基礎に稽古していきます。
腹というものの捉え方も重要な眼目です。近代でもよくは「腹を作る」みたいな言葉はよく聞きますが、古の和人の腹は同一の感覚の上にあったのでしょうか?これもきっと興味湧き立つお題だと思われます。
これらの稽古に伴い、人と人との関係性、コミュニケーションについても稽古を深めて参ります。身体は閉じたものではなく、外の世界にも開いているのです。
身体の中へ中へ潜っていくと同時に外の身体との関わり、内外の空間や時間との関わりも重要な稽古課題になって参ります。
ステップとしては身体感覚の同調による共有性を学び、独観・双観を体験していただく稽古へと進みます。この辺のレベルの稽古になりますと前段で記した「孤独」を身体の中に発見し動かしていくというような稽古も入ってまいります。
(注記)動法、独観、双観は晴風学舎の代表理事であり総師範である野口裕之先生がお作りになった体系です。
色々と馴染みのない用語の羅列になってしまいましたが、私は普段何気なく使っている感覚としての身体を一度バラバラにして、身体という器を再構築していくことを是としており、来られる方に技法を教授しながらそのための稽古をご一緒していきたいということです。それをどのように活かすかはみなさんのお関わりになっている人生によって変わってくるでしょう。
また、稽古で習得いただくものは身体という天から授かったギフトの本質に関わるものと自負しておりますので、中級以上になれば、自ずと稽古へご参加される方のお考えもしっかりお聞きしていく中で、その内容や、どの稽古を受けていただけるかはご相談して進めていきます。
晴風学舎におきましては、普通会員に加え門下生となるための修学会員という制度もございます。
これまでに記した拙文だけではとてもお分かりにならないかと存じます。もしご興味がおありであるようなら、ご遠慮なくご連絡いただければと存じます。
さらなるご説明をいたしたいと存じます。
最後にこちらの稽古はサービスではなく、あくまでご自身の悩みと向き合い、望むと望まざらずに関わらず人生で遭遇する多くの困難と向き合うための、ご自身の修練のための稽古でございますので、どうか稽古に参加される方はそこのところを十分御留意くださいませ。
何卒よろしくお願いいたします。
2026/6/13 Sosuke.Imaeda