稽古というのは練習とかトレーニングではない。未来の目的に向かってやるのが練習なら、稽古は「いにしえ」を捉えている。というか先人の為したことを引き継いでいる。襷は受け取っている。いまある脚の足元をみつめる。脚下照顧だ。明日によそ見せず、過去を振り返らない。振り返るのではなく過去を背負って生きている。いや背負うというと重いという感から免れない、過去を纏っているという方が私の感覚には近いかもしれない。
それを生きている限り確認していける作業が稽古だ。
いくらがんばっても、あがいても過去から続いている自分を諍うことは出来ないし、明日はいつまで待ってもいまだ訪れていない。明日になればそれは今日だ。
だから、「今」を生きてるし、小人である私は大きな存在である大木の「枝」として生を全うするしかない。いまやっと訪れた「壮」という空間と時間を味わいつつ、「介」という独と双の境を季節により渡りながら生きていく。
五月ゴールデンウィークのお昼時、子供たちが真っ白で少し大きめな空手着を着て「エイヤ♫」と呟きながらうれしそうに走って横切って行った。きっと初めて空手の道場に行ったお稽古をしての帰りだろう。お父さんがうれしそうに後ろを歩いていた。
子供達は身体をきっと目一杯使って、現代における非日常の世界を満喫したんだと思う。そこには人目を気にするとか、目標を持つとか、しっかりした大人になるとか、そういう雑念はなかった。
身体を思いっきり動かす、身体に十二分に集注する。
人との比較とか、スキルレベルとか、自慢とか、名誉のためとか、親のためとか、家柄とか、学歴とか、大人になるにつれ寄り添ってくる余計な飾り物はせめて稽古場では距離を置きたいではないか。
私はそれらをつき放し、無心に身体に集注できる稽古する場、そういう本駒込の稽古場を維持していきたい。
そして、微力であるかもしれませんが、気力とか根性とかの精神論ではなく、あなたの大切な身体が全力で生きていく技術的サポートをしたいのです。
そのために師である晴風学舎総師範野口裕之先生に二十年以上学んできました。
どんな身体であっても、身体は万人に平等なのだ。
今ある身体がたとえどんなに傷ついていたとしても、無情な世にどんなに疲れ果てていても、全体を使い切ることで充足し、十分に生きている実感がやってくる!
認められる必要などないと思う。十二分に生きていること、それだけで十分ではないか。私はそんなあなたが好きだ。
2026/5/3 Sosuke.Imaeda